【日時】2021年3月6日(土)13:30-16:30
【テーマ】「モノは人を幸せにするか?」
【講師】田中 裕久氏 関西学院大学 理工学部 先進エネルギーナノ工学科 教授
・開催報告
講演の主題と副題は、「モノは人を幸せにするか?〜アポリア(答えのない問い)を追い求めるアルケミスト〜」
2007年の講演から14年振りのビデオレターのような感じで、昔話と大学に移ってからの報告をしていただきました。「テクノ未来塾」に相応しく「テクノロジー」と「未来」の話を交えて、オードブルからデザートまでフルコースでお話しいただき、大満足の内容でした。
イントロでは「テクノロジーとは何か」について一緒に考え、その後は14年前と同じ触媒の新しい進展についても紹介いただきました。
途中の休憩(ソルベ)では、新しい工学部のオフィシャル・プロモーション・ビデオ、メイキング動画や田中研の紹介ビデオの上映がありました。動画はこちらからもご覧になれます。
・関西学院大学の紹介動画
https://www.youtube.com/watch?v=JLcAMPYhzc8
・田中研究室の紹介動画
https://www.youtube.com/channel/UCgyvdeUJoYRcXblv9YVrUyQ
後半では燃料電池や電気エネルギーの研究紹介と「未来」についての考察、最後に田中先生の命題である「仮説:モノは人を幸せにする」について、34年前(1997年)に60歳になった時に振返ることにされていたそうで、その総括を聞くことができました。
講演後には、田中研究室の6名の学生さんを交えて、3グループに分かれて2回のワールドカフェを行いました。テーマは①テクノロジー、②未来、③モノは人を幸せにするか?
これらのテーマは講演の内容と重なるだけでなく、事前に学生さんからいただいたエンジニアへの質問の中にも関連するものがあり、流石、田中研の学生!と準備段階からワクワクしていましたが、未来の技術者と一緒に「しあわせとは何か」、「人をしあわせにするテクノロジーとは何か」という答えのない問いを考える貴重な時間となりました。
また、未来塾の「エンジニアという職業を語ろう」PJからも活動紹介を行い、今後のコラボにつながることを期待しています。最後に阿部理事長から、参加の学生さん向けに技術とは何か?科学と技術の違い、技術者に期待する資質や産業界が求める人材、若い人達の使命と特権について、熱のこもったお話でフォーラムを締めくくりました。
・田中先生からの感想
まず最初に申し上げるのは「楽しかった〜!!」です。そして何より参加されているみなさまの温かいお心遣いに対しとてもありがたく感じました。フォーラムの中でも申し上げましたが、ZOOMを通してでもみなさまのお顔はとてもチャーミングだと強い印象を受けました。普通サラリーマン(サラリーウーマンも)って、もっとくたびれた顔をしているイメージですが、テクノ未来塾の方々は違いますね。
その温かい雰囲気に包まれて、お陰さまで学生さんたちも結構のびのびと自分の考えを語っていたと思います。大学にいるといろんな場面でそう感じるのですが20歳を超えると人格として完成されているように思っています。
・田中先生への事前mailインタビュー回答集
1)会社員時代とご自身の研究室を持っている大学教授の今と、最も大きな違い(心のありよう)、楽しさの違いは何ですか?
今になって思いますが、会社時代は楽をさせていただきました。気の合う仲間がそばにいて、自動車の開発というわかりやすくそして夢のあるテーマにして、国内外の研究者の支援をいただいて、開発資金も潤沢で、みんなで御神輿を担いでいたので私はその上に乗っかって、新大陸を目指して夢を語るだけで進んで行きました。人事面や経済面の管理は全て誰かに預けて、全てお膳立てをしてもらっていたことを再認識しました。私は技術だけを考えて、周りを励まして、ただ楽しみに待っていればよかったと思います。有給休暇も年間16日以上は取らせていただいていました。
大学の方は個人商店のようなもので、何をするにも反対されることもなく、説明や交渉もいりませんが秘書さんもいないので、郵便ひとつ出すにも自分で重さを測って切手を買ってポストに入れるなど当たり前のことを何十年振りかに経験しました。
会社にいた時は「人に物を教えるのは、よっぽど暇な人がやること」と信じて疑いませんでした。学生時代に研究室のコンパで「教授、学生の成れの果て♪」と歌って、英国紳士のような教授に「田中くん、その歌は次からやめようね」と嗜められた時も、あの物静かな教授がそのように言われたのは「ズバリ的を射たんだ」としか考えず、なんの反省もしませんでした。
会社と一番違うのは、当たり前ですが、毎週スケジュール通りに授業があることです。この担当する授業の教材作りが思いのほか大変で、毎週毎週90分の新ネタの講演を用意し、しかも決して得意ではない分野の授業も含まれていて、月曜日に大学に来て2泊して水曜に帰宅し、また木曜日に来て2泊して土曜日に帰宅するといった日々が続きました。体力的にはすごくキツかったですが、不思議とストレスは全くありませんでした。
昨年は関学に来て4年が過ぎ、ようやく教材も完成して少し楽になると思っていたところ
コロナ禍の影響でオンライン授業となって、教材を全面改訂しなければならず、バチがあたったかの如く(学生時代のコンパの歌の)負荷が一段と高まりました。
そんな中で、6月中旬から研究室の学生に限り、大学への登校が認められて戻ってきました。その時に、しみじみと実感したのは、学生さんの顔の見えないオンライン授業の準備と比べて学生さんの顔を見て、声を聞いて一緒に研究や勉強ができるということはこんなにも心が満たされるものだと、今更ながらの再発見でした。
目の前で、若い人たちが成長していく姿を見せていただけるというのが教員の最大の喜びだと思います。
2)色々な「巡り合わせ」で大学教授に転身されたことと思いますが、いつ頃から次のステップへの準備を始められましたか?
大学教員になろうとは全く思っておらず(自分の興味あることの追究で忙しいので、教員のような暇人ではないから)まさしく「巡り合わせ」です。SPring-8の水木純一郎先生と、2000年2月からずっと共同研究をしてきましたが、2012年の夏前頃に、「関学では、新しく理工学部の中に応用系の新しい学科を作るので、3年後の開設準備に向けて企業の技術者視点で、学生さんに修得して欲しいスキルやカリキュラムに関するアドバイスが欲しい」と誘われ、一度三田キャンパスを訪問した際に、新学科設立のコアメンバーである、水木純一郎・大谷昇・金子忠昭という3人の先生と飲み屋に行って意気投合し、教員としてメンバーに加わるよう要請を受けました。
ただその時点ではダイハツにて、いくつかの国プロを研究代表者として担当させていただいていたので新学科開設の2015年4月に参加するのは無理で、2016年4月ならば全て完了して参加可能と返事しました。その後5ヶ月間くらいご返事がなく、お誘いのことも忘れ去っていた時期に「1年遅れで参加しても新学科設立メンバーとして認めると、文科省さんから許可が降りた」というご返事をいただきました。
私としては、関学内での検討くらいに軽く考えていたことが、新学科設立の認可に関わることであって既に文科省さんまで話が入って検討されていたということを初めて認識し、覚悟を決めました。そのお陰があって、移籍する1年半くらい前には職場のコアメンバーにはその話をして、社長さんにも7ヶ月前には報告してみんなの支援をいただきながら、ダイハツでの片付けをする時間はたっぷりいただくことができました。
3)大学教授以外の選択肢はありましたか?決断のきっかけは何でしたか?
決断のきっかけは以上のような次第です。大学教授以外の選択肢は、静かに定年退職して、インドを旅したり、趣味に生きることを憧れています。