早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
早稲田大学理工学術院とエアバス社との包括協定に基づく活動の一環として、エアバス・セミナーが開催されている。セミ ナーは毎回、エアバスから講師をお招きし、エアバス社の概要、戦略から航空機技術について若い学生に講演してもらっている。戦後、ばらく日本では航空機産業がGHQより制限されていた。日本が独立を果たしてからしばらくして航空機産業の再興を図るため、昭和三十四年(1959年)6月特殊法人・日本航空機製造株式会社が資本金5億円で設立された。政府3億円・民間出資2億円の政府・通産省主導の国策半官企業の特殊法人であった。民間は新三菱重工(現三菱重工業)・川崎航空機(現川崎重工業)・ 富士重工業(現 SUBARU)・新明和工業・日本飛行機・昭和飛行機工業・住友精密工業の7社の連合体である。通産省の航空機武器課長である赤澤璋一は「日本の空を日本の翼で」というキャッチ コピーで推進したのは特筆されるが、幹部も一般職も官庁から天下りであった。日本航空機製造株式会社は、学生時代の筆者の就職先候補の一つであった。その時の就職担当の先生から「大手の寄り合い所帯で働くのが難しい会社だ。就職先としてはどうかな?」とアドヴァイスをもらったことを覚えている。民間から出向した社員も出資母体の会社を気にしながら仕事をしているため、統率からほど遠い組織形態となり、結果的に技術偏重の体質、慢性的な赤字状態などから初めから民間旅客機メーカーの体を成していなかった。その結果、昭和四十八年(1973年)に、通算181機(民需は145機)で生産を終了、会社は累積赤字約 360 億円を残して解散することになった。
一方、エアバス社の設立は1970年12月で日本航空機製造よりも10年も遅い発進であった。当初は、最初に完成したA300はノウハウ不足から航続距離不足や信頼性不足などを指摘され、売上は苦戦し膨大な赤字を抱えた。そこでフランスと西ドイツ政府は全面的な支援に乗り出した。それをきっかけに技術力を大幅に高めた A320 でエアバスは大成功を収めた。近年はアメリカのボー イングと社と市場を二分する巨大航空機メーカーに発展した。中国の航空機業界が発展しつつある今、日本航空機製造が中途半端な形で挫折したのが悔まれてならない。日本の航空機業界は鉄鋼や自動車のように、傑出したリーダーに恵まれなかったのは残念の極みである。