早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
新橋‐横浜間の鉄道は,着工からわずか一年半後の明治四年(1887 年)9 月に完成した.当時のスピード感は今では考えられないほど素早い.
大隈家は代々砲術家として佐賀・鍋島家に仕えていた.父・信保も藩命で長崎に警護のために赴任していた.大隈は,家業とも言える砲術にとって重要な数学(算術)の訓練を受け,さらに,佐賀藩の開明派のエンジニア藩主・鍋島直正のもとで薫陶を受けた.また米国の宣教師であり機械工学のエンジニアであったフルベッキに学び,若い時には理系の学問やエンジニアの素養を育んでいた.そのため,数字に強くなり,理系藩士としての道を歩んできたといえよう.
明治五年(1872 年)10 月,当時の人びとにとって耳慣れないかん高い音が東京の空に響いた.一号機関車が新橋駅から,横浜駅に向けて出発したのである.日本の鉄道が初声をあげた瞬間である. 鉄道が文明開化の先兵であるとするならば,まさにこの場所から始まったともいい.
伊藤と渋沢は,いずれも若き日に海外で鉄道を見聞した強烈な鉄道への「思い」があった.明治二年(1869 年),大隈・伊藤らがイギリス公使パークスらと会談し,その場で鉄道の建設を即決した.決して思いつきではなく,満を持しての決断であった.このとき、大隈31 歳,伊藤28 歳,そして渋沢は29 歳である.すぐさま,築地梁山泊と呼ばれた大隈の家に開明派官僚が結集,彼らとともに少壮の意気に燃えて3 人が勇躍,仕事にとりかかった.日本の鉄道建設の曙である.
高輪付近や,今の横浜のあたりは,海の上に鉄道を敷設した.それは全線の3 分の1 に及んだ.トラックや重機などまだ無い時代に埋め立て,線路を敷設したのである.鉄道を住宅街の傍に敷設する計画ではあったが,当時の日本人にとって蒸気機関車は未知で魔物とされ,多くの反対運動があった.西郷隆盛や大久保利通も時期尚早として反対していた.高輪付近でも海上に築かれた堤防の上に線路が敷設された.なぜだろうか? その原因は西郷隆盛にある.薩摩藩邸のある高輪付近は「軍事上必要であるから手放せない」との理由で,陸地の測量が許可されなかった.鉄道敷設を急いでいた大隈は「エエイ!それなら陸蒸気(おかじょうき)を海に通せ!」と指示,薩摩藩邸などがあった芝・品川付近を避け,海辺に線路を敷くことになった.「浜松町駅を潜るように道路が海側に向かって下降しているのは,そのあたりが海の波打ち際であったから」と高低差の好きな「ブラタモリ」でも紹介している.
鉄道建設に賛成ではなかった大久保利道が試乗した.この試乗で彼の考えが一変した.「実に百聞一見にしかず.愉快にたえず.この便をおこさずんば必ず国を起こすことあたわざるべし」との感想を漏らしている.
新政府になって,欧米の植民地にならないよう,日本の独立と近代化の象徴である鉄道事業を推進したのは大隈と伊藤博文,そして渋沢栄一であった.
その速さは鉄道だけではない.土地制度改革・税制改革・陸軍海軍の設立・義務教育制の実施・人身売買禁止令・太陽暦の採用・国立第一銀行の設立・徴兵制公布・四民平等制の実施・断髪令・郵便制度の改革・電信の開始・ガス灯の設置など…である.世に「文明開化」と呼ばれる主要な事業を,たった一年余の間で計画し,実行してしまったのである.一人の力で政治が動く訳ではないが,政府の中心にいた大隈の実行力は驚くべきものである.大隈が今の政治状況を見たらどう思うだろうか?