早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
本論に入る前に,鶴見俊輔氏らの『日本人は何を捨ててきたのか:明治国家を作った個人たち』を,ここで要約して紹介しよう.「ジョン(中浜)万次郎は土佐の漁師のときに,14 歳の漂流者としてアメリカへ行き,船長に連れられて東海岸に住み着く.ものすごく真面目で成績がいい.頭がいいだけじゃなくて,自分で身を立てなけりゃいけないと思って,桶屋の修行をやって自分で桶を作れるようになった.すごい人間です.今でもアメリカで住んだフェアヘーブンという小さい町の褒め者ですよ.万次郎というのは一個の“個人”なんです.
ロシアに行った伊勢の船乗り・大黒屋光太夫もそう.ロシアの女王・エカテリーナ二世に謁見して,女王に強い印象を与えた.黒船が来た1853 年以前に個人がいたのです.伊藤博文も個人です.その個人が努力して明治国家を作るんだけども,明治国家そのものがうまく“樽”になった.伊藤は下の方だから,自分で肥樋を担いで野菜を作っていた.もう下の下ですよ.そういう人間は,船に乗ってイギリスへ行っても,途中で水夫の手伝いをやったり,料理の手伝いをやったりしてね.長英戦争で長州が負けて,旧知の外交官であるアーネスト・サトウに談判をしに行く.伊藤は下関じゅうを駆け回り,洋食の材料になりそうなものをかき集めて,自分で洋食を作るんですよ.サトウは,日本で最初の洋食の饗応に与った,と自伝に書いている.だから,伊藤は日本の最初の総理大臣だけども,洋食を自分で作って出せる,そんな首相はヨーロッパにもアメリカにもいないでしょう.そういう人がヨーロッパから来た大使公使の間に立ち,列国の首相の間に立ったとき,自ずから別の風格があります.見る人にはわかる.それは“個人”なんです.伊藤のような,青年期から壮年期にかけては自由自在な精神をもった個人が,一生懸命,樽を作って,その中にみんなが入る.その結果,個人がいなくなる.とても皮肉なことですね.樽は学習塾としても優れていた.パット先生の顔を見て,一番早く正解を読み充てる.犬の読心術が樽の中の学習だ.個人が作っても,結局それは個人が活躍する場所にはなりえない
ということでしょうか.そういうふうに,“巧い樽”を作ることは難しかったんですね」と.
幕末から明治にかけては,個人が存分に活躍し,日本という樽作りに没頭してきた時期であり,明治中期以降は中央集権制度という樽の中に,個人が入り込んでしまい,個人が少なくなってしまった時期ともいえるのだろう.