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「鈴木一義先生との江戸技術に関する拡大研究会」

 

【日 時】2020年1月25日(土)13:00 − 17:00
【会 場】国立科学博物館 地球館2階 特別会議室

​【第一部:基調講演】 鈴木一義先生(国立科学博物館)

 「日本のものつくりの源流を追求するー江戸時代の科学技術と人物系譜を中心にしてー」

 

リポート(講演のキーワードを中心に)~

・蘭学

 出島の通詞にしか学ぶことが許されていなかったオランダ語を、吉宗は民間人の野呂元丈や

青木昆陽に学ばせた。役人は知識を独占しようとするが、民間人が学ぶことで知識が広まった。宗教色はスペイン、ポルトガルが強い一方、オランダは薄く、唯一の交流先として残れた。

 

・万年時計

 産業革命により西洋では機械時計が必要になったが、中国や日本は農業国だったので不定時

の方が便利だった。中国は機械時計を玩具にしただけだったが、日本は機械時計を不定時法

にも使えるように改良した。 →技術は人のためにあるという発想

 シンデレラの物語は定時法を周知させる役割があった。

 田中久重の万年時計、ぜんまい(動力)と伝達機構はしっかりしているが、フレーム強度が

りず、1年間は動かせなかった。木の構造でフレーム強度という概念がなかったため、1年

かすぜんまいの力にフレームが耐えられなかった。 →「不完全」を「完全」に合わせると

トラブる。「完全」を「不完全」に合わせるとリスクは小さいか・・。

 大野弁吉は金沢―七尾の出身、であり、川崎重工の源ともいえる。これらのからくりも、

一流。これらのからくりの原点は京都にあり、ここは朝廷という詳細な細工や差別品、技術・

技能を好む、人と資金の集積があったから。

 

・日本の風土

 日本の木の再生サイクルは30年。鎖国しても自給自足が可能な風土だった。鎖国の間、外

から人や資源が入ってくることがないため、人や資源を大切にするようになった。

 鉄作りにも、西洋は立って作業、日本は座って作業と風土が反映されていた。風土に合わ

せて技術が発展した。(のこぎりやカンナを押すか引くかの違い)

 江戸の260年間、自然との調和が保たれていた。南方熊楠が守ろうとした鎮守の森は、自然

災害に備えたバッファの役割を果たしていた。

 江戸時代の日本は金、銀、銅を算出し、流通までできた、世界でも稀な豊かな国であった。

鉱山での労働者も奴隷としてではなく大切に扱われた。

 日本の強みとして、豊富な森林が挙げられる、これは構造材、燃料だけでなく、紙や還元剤

などの貴重な(石炭のような不純物を含まない)ものとして価値がある。

 日本が豊かなのは、「エネルギーと気候の関係」にもよることも考えさせられた。イギリス

うに緯度の高い国では、樹木の生長が遅く、イギリスは森林を伐採して丘陵ばかりになっ

ている。このため、石炭の燃料と蒸気機関に早く気が付いた。日本は、森林の生長がはやく、

木材燃料によりエネルギーも労働力も自給自足状態だった。

 江戸時代は人口が3,000万人で需要と供給のバランスが取れていた。金は佐渡、銀は石見、

銅は伊予・別子、当時の世界の産出量の1/3を占め、他国へ進出する必要はなかった。錬金術は欧州では水銀アマルガム法、日本は塩焼法。

 

・平和な時代

 戦のない平和な時代、殿様の役割は領民を豊かにすること。そのために本草学などの知識

を広めた。識字率が高かっただけでなく、漢文ではなく日本語で学べたこと、本の流通が発展

していたことが大きい。生きるための知識である本草学(例:救民妙薬)が無料で学べたので、貧乏人も寺子屋に通った。

 英国では1617年に特許制度が施行されたが、日本では皆が豊かになるために技術や知識は

オープン化された。

 アジアの中で日本人が現在までなぜノーベル賞を多くとれてきたのか。藩で識字率、「読み」「書き」「そろばん」を競っていた一方、明治後も、独自の日本語で学問が続けられたから。また、江戸時代には「士農工商」とされていたが、実質的には身分制度がなかった。一方、欧州では歴然とした身分/階級があり、学問の広がりの「足かせ」になったのでは。さらに

徳川幕府が鎖国政策をとったのは、「豊臣政権の朝鮮出兵による疲弊と弱体化を見ての反省

からか?」「朝鮮出兵は、日本の軍事力が強くなったからか?」「軍事力が強くなったのは

織田信長が火縄銃の連続射撃戦術を編み出したからか?」それは「武田軍との長篠の戦にさか

のぼるのか・・?」

 400年以上歴史をさかのぼって徳川幕府の鎖国に至るまでの要因を考えさせられた。歴史を

さかのぼって振り返るのは、今の時代も同じ。

(余談:前述の「明治後も、独自の日本語で・・・」にある日本語と小学校の「国語」は何が

違うの?そのルーツは明治の教育の背景。「藩ごとの方言」が大きく異なるため、「薩摩藩」と「会津藩」では、方言のままでは意思疎通が困難だったのでは?そのため、今の「標準語」をベースになる「国語」の授業で全国に共通化したと聞きました)

 

・遺題継承

 和算家はただ問題を解くだけではなく、後世に問題を作り残した。

 和算の中には微積分の概念があったが記号による表記法が無かった。後に西洋から入ってき

数学書は、文字が読めなくても和算の知識から推定しそれを理解することができた。

 

・西洋は科学(神がこの世界をどう創ったか)で発展、日本は技術(役に立つ)で発展

 シーボルトは日本で流布していた養蚕秘録を蘭語に翻訳するほど農学者として優れていた。

 何でもかんでも西洋の技術や本を一方的に輸入していたわけではない。日本の江戸時代の

技術マニュアルとしての実際に使える文書の内容は世界一といってもよい。欧米で翻訳され

実用書として出回っていた事実がある。

 伊能忠敬は子午線1度の長さを測量するために地図を作った。地球の大きさを基準に定めら

たメートル法を検証したのは日本だけ。

 1度の長さは28里2丁、110.74kmと測定されている。一方、西洋天文学は地球の大きさ

図るもの。例えば、ダンケルクからバルセロナまでの距離を測ったとか。

 日本には、「神道」「仏教」「八百万の神」が風土によって根ざしていてその自然観も違う。日本の「技術」、欧州の「科学」の相違のルーツになっているのでは。

 

・起見生心

 細川半蔵の「機巧図彙(からくりずい)」の序文に記された言葉。

「夫奇器を製するの要は、多く見て、心に記憶し、物に触て機転を用ゆるを学ぶ。(中略)此書の如き、実に児戯に等しけれども、見る人の斟酌に依ては、起見生心の一助とも成なんかし。」

 現代の日本企業の国際競争力において、よく言われる「ガラパゴス化」につながるのが各社

「戦術」までで全体の「戦略」に届いていないこと。日本の自動車産業が、自転車、オート

三輪から高級車へ進化したことに対し、欧州は大型車が小型車へ進化している。

 

・マニュアルとカタログ

 マニュアルは献上品に付けるもの、一般人に見せるのはカタログ。国友一貫斎が鉄砲に付け

のはマニュアル、田中久重が無尽燈の宣伝に作ったのはカタログ。

 

・日本のモノ売り

 江戸時代のモノ売りはサービスだった。紙芝居は飴を売るためのサービス。売るための工夫

があった。サービスは、喜んでもらうもの、そしてリピーターを増やすもの。

・石橋の構築技術

 石工たちは全国に展開して那須用水(疎水)など、多くは石をうまく使っている。

 疎水、用水路に関する情報で共通するのは大分・南一郎平。護岸に関する技術、服部長七。

 

・日本の科学

 「解体新書」が出たら社会が基礎医学を理解し自然科学になった。

 →科学技術を社会に役立てるという意識が民衆の中にもあった。

 雲根志:江戸時代における石やセラミック、無機物の集積図鑑で、第一級のもの。

 江戸の本草学者としては、なんといっても貝原益軒は重要人物。

 日本はドイツと同じく基礎医学で往時の代表的な医師が華岡青洲、その流れを汲んで、伊藤

単朴が現れ、佐藤泰然で順天堂の創設につながる。一方、欧州はイギリスとフランスは臨床医

学として広がっていった。

 

・想像と創造

 教養である能は同じ型を継承する一方で、大衆芸能である歌舞伎や文楽は飽きられたら終わ

るので、常に新たなものを求められる。

 

・遊び、用の美

 戦のない江戸時代は、「遊び」による技術の発展があった。「遊び」には想像と創造が必要。

 文楽で使われる人形の手の部分(肘から先)の実物に触れ、たった2本の紐で手首から先を

かす仕組みに「手首から指関節まで」をいかにも自然に動かす工夫が入れられていた。

 西洋のアートは神に向けた美、日本は「用の美」。漆器のような日常のモノにある技と美。

漆器は料理を入れた状態にすることで、手にした人にさらに美しく見える。

 日本のウイスキーが世界で評価されているのは、アルコールに弱い日本人が水割りにして

飲むことで、初めてウイスキーの香りの良さに気付き、それを大切にすることで品質を高めら

れたのではないか。

 日本の食品は水ベースの薄味が主体で、このために味や香りに対する能力が敏感で、磨きが

かかっており、美味しいものが多い。味がわかることになる。

 「用の美」は、「こだわり」「ひいき」からくるものも。柳宗悦によると「工業」の「工」

は、「風土」の「土」から上の「縦線」がとれて「工」になったという話が興味深い。

 

・相手と自分は違うことを理解することが大切

 

・本草学(大和本草学)

 徳川吉宗の時代から拡大、重視されるようになったのが本草学。本草学から自然科学、分類学が発展。和算は、学問全体の一部。当時の大和本草学を代表するのは貝原益軒。

 本草学では、全国の各藩の物産を調査、農作物、地元の薬草など豊富な情報が蓄積され、利用されるようになった。華岡青洲の時代、地元の薬草の情報を多く集める時代。そのうえで、麻酔治療につながる。

 

・当時も今も

 好奇心:知識の蓄積があってはじめて好奇心が生まれる

     情報⇒知識⇒知恵⇒英知

     知識を活用して、知恵、英知のある人・自信のある人を相手は信頼する

  

・江戸時代のイノベーション、中央と地方・地域の関係

 日本にある「仁」の概念、利他。社会のためのイノベーション。昔は、地域定住、藩重視。

 都市に出てもいずれ地域に戻る。

 大名は、藩の独立発展にまい進。例えば、三重・藤堂藩はカメラの発祥。

 越前・七尾藩は北前船からの造船。加州製鉄は琵琶湖汽船、川崎重工へ発展。

 島津藩 島津斉彬は顕微鏡の発祥。そもそも、ガリレオの望遠鏡は家康に献上。

 

・飛行機からプロペラ・スクリュー・黒船へ発想の遡及

 プロペラはスクリューから派生、初期の飛行機は船のようにプロペラが後ろにあった。

 なぜスクリュー? ペリーの黒船は外輪船。効率を比べるとスクリューに軍配。

 スクリューの発明は? 英国。産業革命と最初の特許制度が発足。

 ノウハウが特許制度によりオープンイノベーションが拡がる体制になった。

 

​【第二部】 プロジェクトメンバーから独自視点での7名のイノベーターの紹介

 緒方洪庵、江川英龍、伊能忠敬、二宮忠八、吉田光由、川本幸民、大畑才蔵、井沢弥惣兵衛

~参加者の感想から~

・藩の独立発展。藩の教育行政のための藩校の歴史を探ってみては

 ⇒備前・閑谷学校を訪れて当時の教育システムに感服

 意外な独立発展は、中山間地や、日本海側。美作・津山藩を思い出した。 

 

・これまでの古代の探索と、自分の執筆から街道の交流が果たした情報交流に絡んで気づくこと。

 大和水銀の探索時:奈良・大宇陀 藤沢薬品の発祥の館

 ここは伊勢街道の宿場町。大畑才蔵の生い立ちの宿場町の歴史(執筆に取り上げた実家の和歌山橋本)

 伊勢街道と高野街道の交わる宿場町の歴史。

 織田信長・秀吉の高野山焼き討ち、地元の応其上人と秀吉の和睦、明智光秀の信長暗殺後、秀吉に担ぎ上げられた三法師、天下取り後、無用になった三法師を高野山麓のこの地に幽閉、豊臣秀次の幽閉、関ケ原合戦後の真田幸村親子の隠遁

 

・もう少しやっておきたいこと

 幕末、勝海舟・坂本龍馬の時代の歴史背景と科学技術に、これまでの調査がどうつながったのか神戸の探訪

 

・後続の出版に向けた 在庫600冊の頒布・販売

 今回の「きんか」取材に関して、改めて取材先のネットワークの広さを感じた。

 地元和歌山では大畑才蔵を語り継ぐ会など2団体、井沢弥惣兵衛 顕彰会など2団体

 和歌山市立博物館、橋本市郷土資料館、海南市、南方熊楠取材の田辺市など地元資料館

 埼玉県関係は4か所 実費頒布。 アマゾンのネット購入のURLをつけてお礼挨拶。

 頒布先12団体 ⇒ ネットで頒布先が拡がれば 一人で20~30冊

 執筆者、塾生でこのネット拡大ワークをすると20人ほどで500冊ほど。

 なんとか、売り切って 次の出版につなぎたい。

【第三部】 懇親会​

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鈴木先生作のからくり人形(右)

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