早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
明治新政府は,旧幕府直轄だった昌平坂学問所,開成所(番所調所・神田和泉町),医学所(下谷御徒町⇒神田和泉町)を統合して,神田湯島の同地に大学校として設置した.そこには,近代教育発祥の地としたためた立札が目立たないところにある.
明治九年(1876 年),本郷の加賀藩や他藩の屋敷跡地に東京医学校(医学所)を移した.その後,工芸学部と合併した工部大学校(虎ノ門)が本郷に移転した.明治十年(1877 年)にこれらを合同して東京大学とした.明治十九年(1886 年)の帝国大学令によって東京帝国大学と改称するとともに,既述した工部大学校を吸収合併して法・理・医・文・工の5 分科とした.
一ツ橋にあった予備門は分離して第一高等中学校(旧制第一高等学校)として向ヶ丘の本郷校地に移した.一高寮歌においても,そのころの時代背景として「嗚呼玉杯に花うけて」にも「向ヶ丘にそそり立つ」云々と謳われたのである.その後,校地交換により,旧制第一高等学校は駒場へ,駒場にあった「駒場農学校(東京大学農学部の前身)」が本郷へ移転した.戦後の新制大学移行により,旧制第一高等学校が東京大学教養学部として再発足し,現在に至っている.
移転で空いた神田湯島の地に「東京師範学校」および「東京女子師範学校」が設置された.両校およびそれぞれの附属学校は明治三十六年(1903 年),東京市小石川区大塚窪町(現在の文京区大塚三丁目)に移転した.戦後,「新制東京教育大学」への移行を経て,茨城県つくば市に移転し「筑波大学」に改編された.一方,両者の附属学校は現在でも大塚の地に留まっている.東京女子師範の後身である「東京女高師」が新制大学移行に際して「お茶の水女子大学」を校名としたのは,源流とする昌平黌が,お茶の水の湯島聖堂構内に所在していたことに由来する.
このように,幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降,中央大学・明治大学・日本大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街や古書店街の発展へとつながった.学問所跡地は,そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている.