早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
本田宗一郎は明治三十九年(1906 年)生誕し,平成三年(1991年)85 歳で死去した.彼の本格的スタートは2 輪車である.ホンダカブF 型は5 昭和二十四年(1952 年)に発売された自転車用補助エンジンである.自転車後輪をドライブチェーンにより駆動する方式で,2 サイクル単気筒,排気量 49.9cm3,最高出力 1 PS の性能を有した.アルミダイキャスト,プレス部品などを時代に先駆けて積極的に取り入れ,当時最軽量の 6kg を達成した.白いタンクと赤いエンジンのユニークなデザインから多くの庶民から支持された歴史的な機械といえる.
本田宗一郎は以前から4 輪自動車も自分の手で造りたいとの強い「思い」があった.昭和三十六年(1961 年),特定産業振興法により官僚が産業政策を立案,業界の指導に乗り出し,自動車業界を量産車メーカー・特殊車メーカー・ミニカーメーカーの3グループに再編成するとした.
これにすぐさま反発,通産省企業局長・佐橋滋と鋭く対立した.「ずばりお尋ねします.本田技研は四輪車を作るな,そうおっしゃるのですね」,「まあ,はっきり言ってしまえばそういうこと.アメリカのビッグ3に対抗するには日本の自動車メーカーなど二,三社でいい.新規参入を許す意味も必要もない.ホンダは二輪車だけで企業を存続していけばよい」,「ふざけるなあっ!うちの株主でもないあんた方に,四輪車を作るなと指図されるいわれはないっ!」,「あなたはフォードやGMに勝つ自信がおあり?」,「あるに決まっているでしょう.俺がもし自動車で日の丸を揚げたときには,お前は切腹するぐらいの覚悟をしておけ!」
その後の展開は本田の「思い」が実り,現在のHONDA の隆盛を導いた.自動車業界で自由経済を信奉するリーダーは斯くの如く戦ったのである.