早稲田大学 名誉教授 浅川基男
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「明治政府は近代化を急ぐあまり文系,理系を峻別して促成栽培の教育を施してきた。
この結果、お互いの世界を全く理解できない、理解しようとしない国民性が醸成された。
この意識の断絶を回復することが21 世紀の科学の大きなテーマだ」と村上陽一郎は警鐘を
鳴らしている。
明治の初期は森鴎外や寺田寅彦のように文系、理系と分けることすら意味のない文化人が
多く輩出した。これも西欧の哲学と科学は表裏一体であるとの影響が色濃く残っていたから
であろう。数理に弱いから文系、逆に強いから理系という考えはあまりにも単純すぎる。
理系に進むためには数理は必須であるが、それと同等に大切なのは高度の教養や論理的
表現能力が不可欠である。数学の先生によると「最近の数学証明問題では解答の導入経過が
論理的に説明されていない答案が増えてきた」そうだ。むしろ論理的思考は国語・英語の
長文読解・作文の評価と相関があるとの説を支持する教員も多い。真に太鼓判の押せる
大学を目指すのなら文系にも理数系を、理系にも国語・社会系科目を入学試験時に設ける
べきである。もちろん分野に応じて配点の比重は変えることはあり得る。
また、入学したら文系、理系に関わらず教養のための科学・数学を文学・政治経済・哲学
と同様に学ばせることも必要である。本来、高校で受験指導しながら「教養とはなんぞや」
を身につけた教諭から「教養へのあこがれ」を醸成すべきであろう。
現在の高校がゆとり教育の結果「高度な教養」を放棄、その役割は大学に委ねられてきた。
20 歳前に少しでも数理や哲学を学ぶ体験は必要であり、重要である。感受性の鋭い若いとき
に高度な教養を経験しないと理系・文系アレルギーは生涯付きまとうことになる。
今や学部教育の専門性は進歩した社会に整合しなくなっている。むしろ学部では大まかな
文系、理系の区分だけつけておき、文学,経済,法律,機械,電気,建築等の本格的な専門教育は
大学院から始めるのが21 世紀の大学になるだろう。