早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
世界的なピアニストである園田高弘が生前に,「ウイーフィルの演奏者と競演後の打ち上げではいろいろな音楽談義に花が咲く.バックハウス,ケンプは序の口としても“シュナーベル,フィッシャー,ダルベールはこうだ”と畳みかけられる.問題はその先だ.“ニーチェ的な意味で,フィヒテ的な自我で”と演奏を分析されたらもうお手上げだ.それでも音楽の話をしているうちはまだいい.話題は文学や美術,演劇など文化全般に移って行く.そこに加われず,酒だけなめてぼんやりしている僕は非常な劣等
感に襲われた”としたためている.
スケールは小さいが,私も若いころ米国に技術商談で出張した際,技術論議では下手の英語で何とか用を足すことはできた.しかし,困ったのはその後のランチやディナーでの懇談である.仏教と神道,天皇制,能や歌舞伎,柔道,京都と日本の話題が酒の肴になる.初めは英会話がもっとできたらなと思っていたが,そのうち問題は会話力でなく,自分の教養・知識の浅さにあることに気づき愕然としたことを思い出す.
親しい友との会話で,歴史への造詣,故事来歴,漢詩の一節,諺,気の利いた冗談を聞くと友への尊敬の念と爽やかさを覚えざるをえない.戦前の旧制高校のエリートは教養こそが人間の価値であった.戦後世代の私どもは安保闘争華やかな時代でヘーゲル,マルクス,エンゲルス,サルトルらの弁証法とか実存主義とかを誇らしげに披露する先輩が必ず周辺にいた.そこで先輩らに馬鹿にされないようにと必死の思いで哲学書を紐解くときもあった.
翻って今の若い人たちは「教養」をどう捉えているのであろうか.留学生から「君の考えを聞きたい」と問い詰められたときの日本の若者の弱々しい表情を見ると,日本の将来に悲観的にならざるを得ない.それとも過去の蓄積にこだわらず,新しい生き方の規範を創造するのであろうか.ギリシャ時代から「今の若者は」と大人が嘆いていたそうだから,あまり心配いらないのかもしれない.