孤高は強さの源泉であるが、孤立は弱さの象徴である。いじめも子供の孤立化がその底辺にあると私は見ている。いじめは昔からあった。腕力と智力のあるガキ大将がクラスを仕切り、先生にも生徒にもいじめる側といじめられる側がわかり、対策も打ちやすかった。一方、生徒が互いに孤立し、無関心になっている今は、いじめる側といじめられる側が見えない。当然、この孤立・無関心現象は大学にも年々色濃く反映している。例えば、教科書を学生が事前に自習し、その達成度を教員によるグループ試問でチェックする授業が40年間続いてきた。卒業生からは「役に立つ授業」と高い評価を得てきたのだが、5年ほど前に中止せざるを得なくなった。学生間の事前学習が成り立たず、孤立したままの無手勝流で試問に臨むようになり、授業が成り立たなくなったからである。また、実験科目では、Aグループと同じ質問を翌週のB グループの各学生に試問してもさっぱり答えられなくなった。以前は試問の内容が翌週のグループに即座に伝わり、同一の試問ではほとんどの学生がパスしてしまったのに、実験・実習後のプレゼンテーションにおいても、個々が得た結果をまとめただけの発表になってしまう。特にグループ活動が基本となる研究室生活や、卒論では研究指導以前の「共同作業のやり方」を手取り足取り教えることが大学教員の大きな仕事になってきている。60 年前の敗戦は痛手であったが、その10 年後には「もはや戦後ではない」と言われるほどハード的な面での回復は早かった。
しかし、戦後の核家族化、地域社会の崩壊、過敏な権利意識と規範のゆるみ等、ソフト的な面での激変と、昨今の少子化は日本の歴史上経験したことのない根の深い構造問題としてとり残されたままである。この重症患者に、仮に今から治療を始めたとしても、今後数十年は要するだろう。評論家ではなく現場をあずかる我々教員としては、現時点での崩れた石をできるところから積み直していくしかない。