「硫黄島からの手紙」の映画が話題になっている。太平洋戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍は2万名が戦死。米軍は戦傷死3万名の大損害を双方に出し、後世の歴史に残る大戦闘として知られている。この映画は米国留学の経験を持ち、米軍の物量と戦略の威力を誰よりも知っていた栗林陸軍中将の「硫黄島 からの手紙」をもとにしている。さて、話は変わるが「メレヨン島」の名をご存じであろうか。硫黄島より、さらに遠い日本から2千8百キロのミクロネシア諸島の一部である。最大でも周囲8キロ、標高1メ-トル程度の珊 瑚礁からなる8つほどの小さな島々から成り立っている。そこになんと7千人の日本守備隊が昭和19年4月から配置され始めた。しかし、同年7月にサイパンが陥落してからは、7千人の兵力を維持する物資や食料が完全に断たれてしまった。珊瑚礁の地面を少し掘ると海水が湧き出るほどの痩せた土地で、小さな南瓜がやっと得られる程度の島である。飢餓による体力の衰弱とともにデング熱、アメーバー赤痢によりばたばたと守備隊が倒れはじめ7千人のうち終戦まで5千人が飢餓と病魔により「戦病死」して行った。硫黄島やサイパン、グアムは守備隊が果敢に戦って「戦死」することができたという意味ではまだ救われる。
しかし、メレヨン島は日本にも米国にも見放され、一回の戦闘もせず大部分の戦士が飢餓と病魔でその命を奪われたのである。「補給・兵たん軽視、作戦参謀の独断、精神主義への傾斜」と戦後、山のような反省がなされてきた。
しかし、60年経過した今でも正しい情報の収集と、物・金・人を定量化した戦略・戦術 は日本ではまともに起動しているとは言えない。私の父がメレヨン島で病没したのは昭和20年2月、31歳のときであった。硫黄島のような「メレヨン島からの手紙」は、未だ私の手元には届いていない。