吉村昭の「戦艦武蔵」は長崎造船所で、厳重な機密を保ちながらの巨艦建造は人間格闘劇であり、ページをめくるたびに息詰まる思いに駆られる。同じく「破獄」は犯罪史上未曾有である4度の脱獄を実行した無期刑囚の看守との駆け引き、そして交流の人間像を描いており、一気に読ませてくれる。5度目の破獄をあきらめたのは、技術的な難しさより、「自分にチャレンジする意欲がなくなったから」との語りには考えさせるものがある。城山三郎の「落日燃ゆ」は戦争回避に努力しながらも、文官としてはただ一人A級戦犯として処刑された元首相の広田弘毅を 描いた小説である。当時、なぜ広田が処刑されるのかは大きな議論が巻き起こった。しかし、広田は一切の言い訳はせず、その結果責任を取って潔く散っていった。清廉な人柄で愛された石田禮助が78歳で国鉄総裁に招かれた小説「粗にして野だが卑ではない」は、題名通り多くの人を感動させた。金とか地位などにこだわらず、やりたいことを果敢に実行する粗であり野であることにこだわった人生を礼賛している。
両者に共通するのは、組織の中で「志し高く生きる人間」に迫 っている点である。政治家の高額な事務諸費に対する恥ずかしくて聞くに耐えない答弁や「お金儲けがなぜ悪いのか」「人の心はお金で買える」など冗談でも聞きたくない言葉だ。ライブドア元社長の「自分は知らなかった。忙しくて部下の仕事まで把握できない」など大学のサークルまがいの言い訳で誠に情けない。私の身近な大学でも、教員の研究費不正使用や、学生が単位を落とした。就職が決まっている,何とかしてと泣きついてくる卑しい状況がある。吉村や城山の共通している点は人間組織における「高い志」である。残念なことに、昨年吉村昭が逝き、先日城山三郎も追うように身罷った。「高い志し」も逝かないように、もう一度我々は「志しの質」を再点検しないといけない。