早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
敗戦のどん底にあって,その責任と力量を発揮した吉田茂首相を得たことが,その後の日本の発展に大きな救いをもたらした.彼は肝の据わり方が,戦前のリーダーと異なり,他人にどう思われようと自分は自分,強烈な個をもった為政者であった.初対面のGHQ マッカーサー元帥に静かに語った.「元帥,GHQ とはどういう意味ですか?」,元帥はいやな顔をしながら「ジェネラル・ヘッド・クオーター」と答えると,吉田は「ああそうでしたか,私はゴー・ホーム・クイックリーと思っていました」と,真を突いて笑わせざるを得ない教養あるユーモアで返している.その場の緊張した雰囲気が,一挙に打ち解けたことであろう.GHQ本部のあった皇居前の第一生命ビルを通るたびにこのユーモアを思い出す.
明治維新に匹敵する動乱の時代が戦後の昭和二十~三十年代である.欧米に追い付こうとした富国強兵策が脆くも破綻し,日本の多くが焦土と化した.この焼け跡から山内弘(早大)・福井伸二(東大)・益田森治(東工大)・鈴木弘(東大生研),産業界(鉄鋼業界)から同憂の先覚者,池島俊雄(住友金属)・豊島清三(八幡製鐵)・井上勝郎(日本特殊鋼管,昭和四十三年(1968年)八幡製鐵と合併)らが産学協同でものづくり再興の「思い」から,昭和二十七年(1952 年)「第1回塑性加工研究会(世話人・鈴木弘1))」を創設した.昭和三十六年(1961 年)「日本塑性加工学会」に発展し,現在に至っているのはご案内の通りである.
昭和五十六年(1981 年),昭和天皇からお茶のお招きを受けた席上で,福井伸二2)は日本の金属加工の発展の“思い”をつぎのように語っている.「は昭和七年(1932 年)から金属板を素材料とする基礎研究を故大河内正敏博士のもとで始めることができました.戦後になりますと民生用の応用が盛んになり,特に自動車のボディが大きな目標の一つとなりましたが,ボディに使う薄鋼板を造るなどは不可能,加工技術は米国に絶対かなわぬ,との意見が大勢でございました.昭和三十五年(1960年)以降の進歩はご承知の通りで,瞬く間に世界一に達しました.もう一つは冷間鍛造を,昭和二十五年(1950 年)頃から多くの協同研究者と基礎研究に努め,その成果は三十年頃から自転車業界,三十五年頃から自動車業界にも取り入れられて行きました.その後の進展は,実は私も予想しえなかった次第でございます」と.話が終わってから,陛下は「素材料がよいと言うことだね」と尋ねられ,福井は「今回,陛下に素材料がよいとのご認識を頂いたのは誠にありがたいこと」と感想を述べられている.
これ以降,鉄鋼や自動車など日本のものづくり産業は,世界的地位まで発展して行った.